「JRひめじ別所駅落成!」の、新聞記事を見つけたとき、「ああ、やっとできたのだ。これで別所高校への交通が便利になるな。」となんとなく嬉しくなりました。
そしてふっと30数年前を思い出しました。確かに、あの頃通学路が問題になり、地域の方々と共にバスの乗り入れや、新駅設置を求めて諸機関にはたらきかけたと言われていました。
残念ながら実現しなかったけど。あれから30数年たって、やっとできたのですから本当に良かったと思いました。
初めて別所高校に向った日、山懐に抱かれた校舎は、バス停から歩けど歩けどなかなか近づかず、自分がとっても小さく感じたのを覚えています。
なぜか、そのときの別所高校の姿が絵葉書のように私の心の中にプリントされているのです。
私は、教師になって7年目に学校を立ち上げる経験をさせてもらいました。
そんな経験の浅い私が大プロジェクトに加わることになったのですから一生懸命でした。
いまから思えば、「若かったな。」と冷や汗が出る思いですが、先号で壷坂先生が書かれていたように、心優しい生徒の皆さんと、経験豊かな先生方のチームワークに支えられ、多くのことを学びながら別所高校の創立に加わり14年間在職しました。
創立の数年前に高校が荒れた厳しい時代があり、別所高校が設立されたのは、それが少し落ちついてきた頃でした。
殺伐とした状況を経験した私達職員は誰もが、活発に伸び伸びと学習活動や部活動ができる学校をつくろうと考えていました。
連日行われたさまざまなルールづくりのための会議でも、大事なところはきちんと押さえ、あまり細かいルールで生徒を縛らないで、信頼し生徒の自主性を育てようというのが共通認識であったと思います。
残念ながら、生徒の人数が急激に増えていく中で、当初の理念が簡単に崩れてしまいました。
精神性というか教育理念を0から1にし、さらに2にしていくことの難しさをつくづく思いました。
そこには、何か創造力が必要だったかも知れません。
先輩のいない高校生活を過ごした1回生の皆さんは何かにつけて「別所高校の伝統は君達がつくるのだ。」と叱咤激励され、悩むことも多かったと思いますが、どうか大先輩として同窓会を力強くますます盛り上がっていかれることを願っています。
年齢を重ねるにつれて、同窓会のつながりも長い人生の中で大切なものだと思うこの頃です。
皆様のご健勝をお祈りします。
理科(生物)を担当していた私は、生物実験室の充実も大きな課題でした。
当時は経済的に豊かな時代で、物理・化学・地学・生物それぞれに講義室と実験室が設置されており、このような学校は県下でも数少ないと思います。
しかし、立派な器はあるけれど実験器具は顕微鏡だけでした。
創立3年目に北上先生が来られて充実していき、実験中心の生物の授業を行えるようになりました。
「別所高校生のために生物実験」というテキストを覚えている人は多いでしょう。
また文部省から「勤労体験学習研究校」の指定を受け、校庭に芝生をはる作業に全校あげて取り組んだことも貴重な体験でした。
自分たちの手で学校をつくるなどはめったに体験できることではなく、この体験で学校に対する強い愛着が生まれたのではないでしょうか。
同時に、20年後、30年後を見据えて樹種を選び適切な場所に植えられた木々。
私はそれぞれの周年記念式典に出席させていただいて、その成長ぶりに歴史の積み重ねを感じ感慨深いものがありました。
また校歌ができた時、作曲者の林雄一郎氏に直接指導してもらったことも忘れがたいことです。
10周年の記念事業で聞いた関西学院大のグリークラブによる校歌のすばらしさ。
おおがさではなく生涯で一度だけの数々のこれら経験と、別所高校での14年間は私の教師としての原点になったと思います。
定年退職した今、感謝の気持ちでいっぱいです。
「もはや新設校ではない」といつの頃からか言われるようになり、卒業生も9000人を超えました。
生徒数の減少で学校規模は小さくなりましたが、いきいきと高校生活を送っている在校生の皆さんに、卒業生をはじめ多くの関係者の期待を受け止めて、さらに発展する努力をしていただきたいと思います。
別所高校の未来は、今そこにいる生徒の皆さんにかかっています。
(「会報 友城2008」『随想リレー』より)
【略歴】
在任期間: 昭和51年04月01日~平成元年03月31日